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[08/13 響由布子]
[08/13 しょっぱめの猫]
[08/06 響由布子]
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プロフィール
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響由布子
性別:
女性
趣味:
ペットと遊ぶ
自己紹介:
日記は数ヶ月ごとに整理しています。
適当に削除していますので検索でたどり着いても該当の日記が無い場合があります。
※連絡先はhibikiyuko〒gmail.com(〒を@に直してください)
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万物は流転する


■「万物は流転する」と言ったのはヘラクレイトス。これは哲学の概念ですが、この言葉が面白いのは、「万物は流転する」という言葉はその言葉が正しい限りは絶対であり不変であるわけなのです。「万物は流転する」と言った途端に流転しない不変の概念が生まれちゃったわけですね。


■じゃあこの「万物は流転する」という考えは「万物」の中に入らないのかな? ←答えは入らない、何故なら万物を総括する言葉なので。「万物」という世の中のありとあらゆるモノコトの上にさらに概念があると。


■こういうのを「メタ」と言うのかなと私は感じました。


■数年前の私は考える事が苦手で一言からあれこれ思考を広げるなんていう事もあまりしなかったように思います。今は割と順々に積み重ねて考えるようになりました。何故そうなったかというと……。


■たぶん「聖書」を読み込んだせいだと思います。聖書は、何度となく「絶対」というものを分からせようとこちらの価値観を破壊してきます。揺さぶります。迷わせます。そのたびに聖書は「我に従え。なぜなら我が絶対(正)だからだ」と言ってくるのです。「お前の迷いは無価値だ。羊のように我に従え。疑るな」ときます。


■つまり読み手に「絶対」というものの存在を叩きこむのが聖書の役割なのです。その「絶対」は超越的な存在でありそれは神であり概念なのだと思います。「聖書」は非科学的なようで科学的と言われるのはたぶんこの「概念」という目に見えないものを分からせる事に熱意を傾けているからではないかと。


■聖書の解釈で良く間違うのは、神を擬人化してしまう事なのですが、神は人ではない。そこを呑み込めてからは、モノの見方が変わりました。


■真面目な私が一層真面目になったような気がしました。なんちって~


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たちまち小僧英語版

まだ時代官能を気合で書いていた頃の作品ですが、やっと英訳版が出ました。
kindle unlimited ですので良かったらお読みください。
翻訳作業のSeiichirou Koizumiさん、英語校正のChing Li Torさん、お疲れ様でした!

たちまち小僧 英訳版

近況

■この秋出版予定(たぶん)の官能長編、半分まで出来上がりました。今回もとても時間が掛かっています。〆切を伸ばしに伸ばしてもらってしまいました。
■ひょっとしてスランプでしょうかね。この壁を乗り越えないと次が無いので頑張りたいのですが。
■次の新刊は医療関係の話です。お楽しみに。内容は、医者嫌い(わたし)が医院での診療の話を書くとこんな風になるのかぁ~というようなお話です。「医者なんか絶対行かねえや!」という貴方にこそ読んでいただきたいです。
■スランプの人が書いた話なんてつまらないんじゃないの? って? いやそれは無いです。時間が異様にかかっているだけで内容はエロ面白いです。emoji
■価格は前回と大して変わらないので、お小遣いから文庫代を取って置いて下さいまし。よろしくお願い致します!

21世紀に儒教を問う

記録(保存)用にこちらにも投稿。

21世紀に儒教を問う(早稲田大学孔子学院叢書)

この本面白そう。儒教はぼちぼち勉強しているんですが、何度聞いても「儒教は宗教じゃなくて善く生きるための方法論、手順」ってのがピンと来てないのですが、こちらのレビューにもその事が触れてありました。
リンク先レビューの気になる部分を転載しておきます。「宗教」という言葉にとらわれ過ぎている自分を再発見したような気がしないでもないです。この本に興味ある方は是非!

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・(儒教は)超越して外在する世界を持たないのである。…活き活きと生きる具体的な人を省察の起点とする、これが儒家の最も基本的な信念である。(70頁)

・(宗教学者ウィルフレッド・キャントウェル・スミスによれば)religionという名詞そのものが学術界に極めて大きな偏見をつくりだし、多くの不健全な結果をもたらしており、この言葉を取り除くべきで、名詞としての宗教(religion)は多くの困難を生み出しているので形容詞(religiousu)だけを用いるべきだ、と主張している。なぜならばreligionの出現は17世紀で、それはキリスト教文化を中心として発展してきた一つの観点だからである。比較文化学から言えば、キリスト教徒はキリスト教以外のあらゆる宗教はすべてism(主義)で本当の意味での宗教ではなく、真正な意味での宗教はキリスト教であると考えてきた。(126頁)
---以上、若村さき氏のアマゾンレビューより転載---

雑感@山岳信仰

先日の山岳信仰の講演を聞いて思ったことなどをてきとーに書き散らしておきます。
私の家は父方が山岳の集落出身なのですが、イエは山伏ではありません。木こり&猟師と聞いてます。
でも山岳信仰の話を聞いて「ああ。これだったのか」と思う事が多かったのです。
まず父は、山を下りる時は声を出しながら走っておりてました。私たちにも「ほいほい」と声を出して駆け降りる事を要求してました。これって産道を通って出る修験道のイニシエーションと同じかなと。あと、下山の時は振り返ってはいけないとも聞いた気がします。これも山岳信仰の伝承と同じです。
直接私にそういったかどうかは忘れてしまいましたが、山を擬人化していたように思います。例えば「山に騙されて神隠しにあってしまうから」「振り向いてはいけない」「道しるべを自分でも作っておけ」みたいな教えを受けた記憶があります。私の幼少時からの感覚で言えば、山は人(神)で、騙したり騙されたりするおおいなる相手という認識がありました。

そして山岳信仰で山の女神(醜い)に対して最初に取れたはぜ(醜い魚)を奉納するという話、確かに川遊びで最初に取れたかじか(この魚も醜い)を「本当は山の神様のものだから食べちゃダメなんだよ」と亡父は言っていたような……。


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