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[01/10 響由布子]
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響由布子
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唐の御所穴

弁護士の藤井輝久さんから写真と情報をいただきました。
「唐の御所」と言って、平将門の娘がこの地に逃れてきて、この横穴で出産したが、その時、『唐土帝妃』と身分を偽ったところからこの名がついたと伝えられているのだそうです。
こんな場所知らなかった。国指定史跡だそうです。

唐の御所穴(リンク保存)
http://sgkohun.world.coocan.jp/archive/index.php/nakagawa_karano/

http://blog.livedoor.jp/kako4779/archives/6668372.html

http://www.town.tochigi-nakagawa.lg.jp/23syougai/03bunka/bunka.html

http://kofunnomori.web.fc2.com/tochigi/nakagawa/kara.htm



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平将門故蹟考


平将門故蹟考


↑↑↑↑この本が見たかったのですが、国立国会図書館デジタルアーカイブで誰でも閲覧できる事を発見しました。閲覧用pdf18枚目より


(引用開始)※古い漢字は適当に直してます


鬼王神社 同郡西大久保村にあり将門の幼名外都鬼王と云へるをもて神号となりせるなり今は祭神を変更せり但し知る人は将門を祭れりと称す


(引用終わり)




もっと古い時代に渡来系で都鬼(つき)氏っていたんですよね。関係あるのか知りたいな。


さて私はこれより来月〆切の官能短編執筆のために再びハッスルセックスハッスルセックスな世界に戻ろうかと思いまする……。とほほ。


『新撰姓氏禄』…

※平将門に興味ある人は是非読んでみてください。

昨日、県犬養の姓が神別氏族だから珍しいんじゃなのかなという事を書きましたが、単なる雑な推測なので、一体どのくらいの数の神別氏族の姓があったのか調べてみました。
公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター
設立35周年記念講演会・シンポジウム
『和魂漢才』-京都・東アジア の考古学-
のレジュメを掘ってきました。
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(ココから引用)

古代東アジアと京都盆地
公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター
理事長 上田正昭

1.『新撰姓氏禄』の左京・右京の「諸蕃」
新撰姓氏禄は、出自によって皇別・神別・諸蕃に分けて記載し、最後に未定雑姓(系譜未詳の氏族)を掲載した。1182氏の内訳は、左京・右京から和泉国までで、皇別335氏、神別404氏、諸蕃326氏、未定雑姓117氏となっている。
 平安京の左京皇別は118氏であり、右京皇別は67氏であって、その合計は147氏であった。ところが左京諸蕃は62氏、右京諸蕃は102氏で、その合計164氏は、左京と右京の神別氏族の合計を抜いている。いかに平安京に渡来系の氏族が多数居住していたかをうかがうことができる。
『新撰姓氏禄』の「諸蕃」では「漢」・「百済」「高麗」にわけているが、たとえば「左京諸蕃上」の冒頭には、「太秦公宿禰 秦始皇帝の十三世の孫、孝武王の後なり」とする。これは中国を「大唐」として、新羅系の秦氏の始祖を秦始皇帝に府会したものであって、もとより信頼することはできない。「大宝令」や「養老令」の公文書の様式などを定めた「公式令」の注釈書で、天平10年(738)ごろの『古記」』に、「隣国は大唐」、「蕃国は新羅」とみなした中華を敬慕しての始祖の改変であった。したがって「漢」の分類のなかには新羅系の渡来族もかなり含まれている。
(引用終わり)
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皇別=臣籍降下した家って、案外たくさんあるんじゃん? 
そしたら高望王⇒平姓なんてのは朝廷から見たら数百分の1って事ではないでしょうか。
うーむ……。

ちなみに『新撰姓氏禄』は、平安時代初期の弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑とのことです。
高望王が臣籍降下したのは寛平元年(889年)ですから、815年の時より皇別氏族はさらに増えていたのではないかと推察致しました。

県犬養氏について

※検索で辿りついた人、何か気付いた事あったらぜひコメント下さい!


県犬養家で一番有名なのは藤原不比等の妻である県犬養三千代(橘の姓を下賜され橘三千代となった)。次が大伴家持に防人の歌を出した県犬養浄人など。

「県犬養三千代」義江明子著(吉川弘文館)より。
(引用開始)
県犬養(県犬甘とも書く)氏は、番犬を資養して屯倉(みやけ)を守護し、その管理運営にあたる伴造(とものみやつこ)氏族だった。『日本書紀』によると、安閑天皇の時に諸国に屯倉を設け、犬養部(いぬかいべ)を置いて、桜井田部連(さくらいのたべのむらじ)・県犬養連・難波吉士(なにわのきし)等に屯倉の税を掌らせたという(安閑2年5月~9月条:日本書紀)。地名の分布状況からも、イヌカイとミヤケは接近する例が多い。(黛弘道「犬養氏および犬養部の研究」)

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