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越谷吾山の本

『越谷吾山 方言に憑かれた男』 杉本つとむ(さきたま出版会)より


●まえがき


 吾山の『物類称呼』は江戸期最大最高の全国方言辞典であることはいうまでもありませんが、二十世紀、敗戦前まで、一人の手になるこうした全国的規模の方言辞典は存在しませんでした。まことに稀有にして絶賛すべき一大労作です。しかし多くの日本人からはほとんど忘れ去られ、わずかにこの方面の専門学者によって、その功業が受け止められ、発展させられているにすぎません。おそらく越谷市民でも、埼玉県民にあっても、――〈渋沢栄一〉は三歳の童児といえども耳にしているでしょうが――ほとんどの人は越谷吾山の名も存在もしらないことでしょう。


 現代では日本民俗学の祖と仰がれる柳田国男への影響もあり、〈顕彰碑寄付金人名簿〉でも判明するように、故東大教授、橋本進吉をはじめ東条操、志田素琴(義秀)など言語学、国語学、方言学、俳諧研究家が、吾山の業績に賛辞をおくっているのです。


わたくしは、先に吾山の著書『物類称呼』(八坂書房・生活の古典双書)を翻刻し、総索引を付して出版しました。(中略)しかしこれまで吾山のことについて志田素琴氏の小冊子以外にまとまった略伝や著書の考察はありません。同書は約百ページの小本で、昭和九年、越谷吾山翁記念事業会(代表、会田利次郎)で、非売品として、百五十回忌法会を記念して発行したものです。その点、今回はできるかぎり資料をあさり、かつは吾山の生きた時代、江戸文壇と俳諧など、いわば吾山の活躍した舞台を描写しつつ、吾山が研究しまとめた、全国方言・民俗への考察の成果を検討しました。あらためて、方言学者、民俗学者としての吾山の人物像を示すことにしたわけです。


吾山の研究は当時、十八世紀のヨーロッパの方言研究と比較しても、決して劣ることのない大きな仕事であったといえます。一埼玉県民の文化的財産としてだけではなく、ひろく、日本人のことばや民俗の原点をさぐる記念碑とすべき業績として、かつは吾山没後二百二年を記念する鎮魂の譜として、〈越谷吾山〉を世におくることとしました。大方の御愛読と御叱正を切にお願いしておきます。


末筆ですが、早稲田大学図書館、東京大学図書館、県立富山図書館に厚く御礼申し上げます。


 一九八九年六月四日


    中国・北京にて    著者 識 



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この本途中から難しくてギブアップした。
万葉集の中にも方言がたくさんあった、という事を知った。
たぶんあと20年くらいでこの本も吾山も記録が消えちゃうような気がして、思わず抜き書き・書き留めました。

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1秒って誰が決めるの?

最初の方だけ抜き書きしましたがこの本面白いです。

【1秒って誰が決めてるの?】安田正美(ちくまプリマ―新書)
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・1秒の定義は時代とともに変化している。
・時間の計測、昔は天文学だったが今は物理学の範囲
・そもそも人間の感覚器には時間に関係するものは存在しない。時間については時計しかはかるものがない
・人類最初の時計は「暦」
・「太陽」と「月」二つの天体の動きを重ね合わせる事で暦を作った
・これは最小公倍数の考え方であり、素数の考え方ともいえる。
・暦の誕生=数学の芽生えともいえる
・紀元前の日時計、水時計、砂時計で時間をざっくりはかるようになるが本当にざっくり
・12世紀に機械時計が出来てから状況が変わった
・12世紀に作られた時計は長いひもの先に重りをつけて高い塔のてっぺんに重りを上げ、自身の重みで少しずつおりていく、それを動力とした。
・村で一番高い塔は教会の鐘つき塔なのでそこに時計の装置が置かれるようになる。
・教会の鐘の事をラテン語で「クロッカ」という。これがクロックの語源。
・しかし当時の塔時計には針が1つしかなかった。(〇時くらいしかはかれなかった)
・日本の江戸期の大名時計も似たようなもので、塔時計と同じシステム(冠歯車脱進機)なので1日に1時間くらいの狂いがあったりした。
・一分とか一秒という概念が無かった(はかれなかったので)
・西洋では、ガリレオが「振り子の等時性」の法則を発見した事で、時間を正確に計る仕組みが出来上がり、1時間を分割してみようという考えが出てきた。
・この頃から時計の針が二つになる。
・分を意味すぐminuteは「小さい」という意味。
・分がきちんと測定できるようになると今度はさらに分を分割しようという欲が出てきた。
・分をさらに60に分けたのがsecond minute(二番目の小さいモノ)。時代がたつとsecond minuteはsecondと呼ばれるようになる。
・1時間はなぜ60分なのか。10進法や12進法は採用しなかったのか?
・古代ではモノを分ける時、目で見て「半分」とか「三分の一」とか手で分けていた。多くの数字の倍数にあたり割り易かった60は、桁計算をしない人たちには使い勝手のいい数字だったのではないか。
・西洋では今でも二分の一インチとか四分の一マイルとかいう表現を使うが、もともとそういう感覚になじんでいたのだろう。
・十進法「メートル法」の発祥地であるフランスでは、フランス革命後の1793年に「フランス革命暦(共和暦)」を作って十進法に挑戦したことがある。1週間=10日、1日=10時間、1時間=100分、1分=100秒で暦を作った。
・結局根付かなく、時間は60進法に戻る。
※「へ~~」の連続なのでメモりました。(具合悪いんだから大人しく寝てろって話ですね)
https://www.amazon.co.jp/dp/4480689184

日本における定時法と不定時法

※昨日「操觚の会」の勉強会で教えていただいた事を元に少し足しました。目からウロコな話がとても多く、一つ一つの間違い指摘がとても勉強になりました。ありがとうございました。
個人的に一番「知って嬉しかった」「長年の疑問がとけた」話題について、帰宅後調べた事などを付け足してここに書いておきます。(ほかにも色々あったんですがまずはこれ)

【不定時法と定時法】

■不定時法は季節によって時間の区切りの長さが変わるもので、江戸時代の日本の時刻は不定時法なのはみな様ご存知の通りです。
■しかし、江戸時代の不定時法のインパクトが強すぎて、他の時代で連綿と続いていた時刻の計り方が吹っ飛んでしまっていました。
■江戸時代では江戸期から始まった不定時法と同時に、それ以前から続いていた定時法も採用されていた事は意外に知られておりません。(私は知らなかった)
■しかしよく考えてみれば木簡(公文書)に出てくる「申の刻」「子の刻」がいつなのかとか、「丑三つ時」の「丑」「三つ」って何だろうとか、小さな疑問はその都度皆さんも感じているわけで、つまり色々な小さい事が「頭の中で繋がってなかった」状態なのではないかと。
■不定時法では日の出と日の入りを起点にしてその間の日中と夜間を六つに区切ります。なので夏は日中が長くなり時間の区切りも長くなります。冬はその逆です。
■ちなみに明六つとは太陽が水平線から顔を出した時ではなく「薄明」、空が白んできた時刻を指します。暮六つとは太陽が完全に沈んだ時ではなく、相手の顔を見て「誰が彼(たれそかれ)」か分からなくなった時点を指すそうです。たそがれです。
■ここは私の推測ですが、公文書は定時法を採用し、庶民生活は不定時法を採用していた、つまり江戸の武士は、庶民と接点がある人は二つの時法を使いこなし、庶民との接点のない公家などは定時法だったのではないかなと……(個人の推察です)

 

【その前に定時法の歴史】

■時刻をはかり始めたのは発掘結果などによれば紀元前4000年頃のエジプトで日時計でした。
■紀元前1400年頃にエジプトで水時計(水をぽたぽた滴らせて計る)が始まります。
■古代中国、前漢時代に『漏刻(ろうこく)』という水時計があった事がわかっていて、日本にもその技術が渡来しました。日本で漏刻をはじめて採用したのは中大兄皇子と言われています。「斉明天皇6年(660年)に漏刻を採用した」という記述があるそうです。
■大化の改新(律令制開始)の一環としての定時法採用と思って良いのかなと(⇐個人の感想です)。
■近江神宮サイトより転載開始:この時の漏刻がどのようなものであったのか、文献には全く記載がなく、不明というしかありません。飛鳥の水落遺跡は斉明朝の漏刻の跡ではないかとされていますが、漏刻そのものが出土しているわけではありません。(転載終わり)
■暦(時間の決まり)を決めるのは天子の権利、という事で改新したのではないかと。
■6世紀頃には燃焼時計(長いお香やろうそくを燃やして時刻を計る)も始まる。こちらは漏刻と違って持ち歩きが出来るので、漏刻の時間を遠くに広めるためにもつかわれたのではないかと思います(個人の推察です)。
■機械式の時計が入ってくるのは戦国時代、外国人宣教師の渡来によってもたらされた。日本の職人はその仕組みを教えてもらって独自に時計を作り始める。
■セイコーミュージアムより転載開始:キリスト教の伝導が進むにつれて、宣教師達は九州や京都に教会付属の職業学校を設け、印刷技術やオルガン、天文機器などとともに時計の製作技術を教えました。そこで、日本の鍛冶たちが指導を受けながら時計を製作したのが、日本の機械時計製作のはじまりです。(転載終わり)
https://museum.seiko.co.jp/knowledge/wadokei/index.html
 

【日本における定時法】

■古代中国からもたらされた「漏刻」は巨大な仕掛けが必要で、流れ出る水を常に管理する人も必要でした。律令制開始の時に出来た『陰陽寮』には、暦博士、天文博士、陰陽博士のほかに漏刻博士というのがいて、「漏刻」の管理などを学んでいました。
■『陰陽寮』とは、官僚養成所みたいなものでは(個人の解釈です)
■『漏刻』の時間のはかり方ですが、一日を100に分割します。24時間を百分割なので「漏刻」での時刻の一単位は24×60÷100=14.4分です。
■近江神宮サイトより転載開始:
 その後奈良時代に入って太宰府や多賀城、各国府などにも漏刻が置かれていったことが文献に見え、平安時代の末までは使用されていたのですが、その後律令体制の崩壊とともに徐々に廃絶していったようです。また、近江神宮の漏刻は大きな石造物であるわけですが、持ち運びのできるものもあったようで、天皇の行幸の際には必ず漏刻を携行し、漏刻博士や守辰丁(管理係)も同行したとのことです。
 なお、平安時代の文献によれば1日100刻制も行われていたようです。(転載終わり)
■近江神宮サイトより転載開始:漏刻そのものは中国の技術の導入であったわけですが、中国の100刻制に対して日本では独自の48刻制を採用したということです。そして現在の時法でいえば3分刻みの精密さで時刻を測り、律令体制の確率に資していったのです。日月食の時刻の計算なども(しかも日本では見えない日食の予想時刻の計算までも)その時刻制度によって行われていたことが平安時代の文献に見えます。(転載終わり)
■「漏刻」と同時に一日を12に分割する方法がありました。12分割の場合は十二支を時刻にあてはめます。木簡に書かれている「申の刻」「子の刻」などの事です……よね。
■つまり平安時代においても、江戸時代のように2つの時刻の計り方(「漏刻」と「日本独自の十二辰刻」と)が採用されていたわけですね。
■なぜわざわざ独自の方法を編み出したのか、そこについてはこれから調べて行きたいと思います。
■近江神宮サイトより転載開始:日本では、1昼夜を12に分けて(12辰刻)十二支の名称で呼び、1辰刻を4つの刻(4刻 または4点)に分け、さらにその1刻を10に分けていた(10分)ことが『延喜式』などの文献から知られます。1辰刻は現在の2時間、1刻は現在の30分、1分(ぶ)は現在の3分に相当します。時計を持たない一般庶民は太陽の動きと明るさによって生活するしかなかったでしょうが、少なくとも平安時代の宮廷の正式な時刻制度としては、季節によって時刻が変らない、定時法が行われていたとされています。
 『延喜式』にはこの時刻制度によって季節ごとの日の出日の入り時刻、宮廷の諸門の開閉時刻、役人の出退勤時刻などが書かれており、その基準は漏刻によって知られる時刻ですから、漏刻の目盛もおそらく定時法で、1本に48の目盛を目盛って用いていたのではないかと考えられます。(100の目盛であったとか不定時法であったとかの説もあります)そして門の開閉時刻や1辰刻ごと、1刻ごとに太鼓または鐘を鳴らして時報を行ったわけです。
http://oumijingu.org/publics/index/167/
■ここまでくると「丑三つ時」が理解できます。定時法の丑の刻(一刻は四分割される)の三つ目、という意味ではないかと。
■つまり「丑三つ時」は不定時法じゃなくて定時法の時刻だったと、いう事ですね。すっきりしました!!!

 

小田原と外郎家

【小田原と外郎(ういろう)家】


(パンフレット転載、読みやすいようにテニヲハ等直しています)


1495年に小田原を平定した北條早雲は、京都の朝廷に仕えていた外郎家五代目・外郎宇野藤右衛門定治を招き、朝廷との外交役としました。


■外郎家は中国で約一千年、日本で六百数十年続いている家で、初代陳延祐(ちんえんゆう)は元に仕えていましたが、元の滅亡と共に日本に帰化し、中国での役職名・礼部員外郎(れいぶいんがいろう)の外郎をとって、役職名と区別するため「外」を「うい」と読ませて「外郎」と名乗りました。医術と占いに優れていたので、将軍・足利義満から京都の招かれましたが、最後まで行かず、博多で生涯を閉じました。


■かわりに二代目・宗奇(そうき)が朝廷に仕えました。延祐の持参した家伝の薬「霊宝丹(れっぽうたん)」は朝廷に珍重され、宗奇は朝廷の命をうけて明にわたり、実家から薬の処方を持ち帰りました。これが薬の「ういろう」です。


■また、宗奇は朝廷で外国使節の接待に供するための菓子を自ら考案しました。これが菓子の「ういろう」です。どちらも外郎家のものであることから「ういろう」と呼ばれました。なお、薬のういろうはのちに天皇から「※透頂香(とうちんこう)」の名をいただきました。


※大切に扱い、丸薬を呑むときは冠の隙間から取り出していただく……この様子を天皇は透頂香と詠んだのでした


■五代目定治は小田原へ来住する際、菓子の製法を弟に残してきましたが、京の外郎家はその後、室町幕府とともに兵火にかかり、世継ぎも無く絶家し、その時仕えていた職人等によって菓子の製法は全国に広まりました。一方、薬の製法は小田原の外郎家が一子相伝で現在も伝えています。


■豊臣秀吉が北条家を滅ぼした時、北条一族家臣は城下に残さない方針でしたが、外郎家だけは特別で残され、以後外郎家は薬を一般に売り出し、医薬の方に専心する事になりました。そして江戸時代には宿老(しゅくろう)として、小田原のために尽くしました。


■享保年間、歌舞伎役者・二代目市川団十郎は持病の咳と痰のため台詞が言えず、舞台に立てずに困っていました。その時、薬のういろうのことを知り、この薬によって全快しました。お礼の気持ちで「こういう薬もある事を知らせたいから」と舞台で上演することを申し出ました。外郎家は宣伝になることを恐れて固辞しましたが、再三の申し出に上演を承知し、こうして市川団十郎の創作による歌舞伎十八番「外郎売(ういろううり)」の台詞が誕生しました。


■明治に入ると、室町時代から貴紳の接待の為に作っていた「菓子のういろう」も市販するようになりました。


■外郎家は朝廷から十六の菊の紋と、五七の桐の紋を与えられていましたので、五代目定治が小田原に八ツ棟造りの建物を建てた時、天皇より祝いの言葉を賜りました。このため八ツ棟は壊れると建て直すのが代々の遺言となり、その回数から小田原地震の回数が察せられます。


 ■こうして北条早雲の時代から五百年、外郎家は今も小田原でその伝統を守り続けています。明治十八年築の蔵を利用した博物館にて、外郎家にまつわる品々を展示しております。


※転載終わり。他人と一緒の行動だったので博物館は見学できなかった。残念!


 追記:初代外郎さんは現在でいうところの浙江省出身で元の順宗皇帝に仕えていたそうです。


「降霊会の夜」浅田次郎

でも、みなさんの言っていることがよくわからないの。
 大学がロックアウトされて、入学金も授業料も払っているのに勉強ができないなんて、そんな理不尽な話はないと思うんだけど。
 お金、返してくれないんですよね。どうしてみなさんがその要求をしないのか、まずそれがわからない。お金を返せとも言わず、授業が始まらない方がいいっていうのも、まるでわからない。四年間ずっと授業がなくって、レポートの提出だけで卒業するほうがいいっていう意味でしょうか。
 定時制の高校には、高卒の肩書ほしさのために通っている人なんていません。みんな勉強がしたいから。人並みの学力を身につけたいから。もし授業がなくて、レポートの提出だけだなんて言われたら、みんなで文句をつけます。だって、それじゃ詐欺でしょうに。
 もうひとつ、わからないことがあります。
 ロックアウトをしている学生たちは、入学金も授業料も納めているんですよね。除籍になっていないんだから、お金は払っていることになります。だったら、何が気に入らなくたって、どんな主義主張があったって、勉強をしなければ損だと思うんだけど。
 何もかもわからないことだらけ。
 でも、結論はひとつきり。あんまり考えたくないけど、たぶん正解だと思う。
 キャンパスを封鎖する学生も、それを幸いだとする学生も、入学金や授業料を自分で払ってない。おまけに、勉強もしたくはない。
……『降霊会の夜』浅田次郎著、p175-176


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