■大掃除で出てきた結構な額のトラベラーズチェック(TC)について、もう交換出来ないのかと焦りましたが解決しましたのでご報告を。
■「トラベレックス」という外貨専門会社で現金化してくれるそうです。ただし条件があります。
1)現金化は日本円のみ
2)TCはアメックス発行ならOK(画像参照のこと。裏面中央にこのマークがあるもの)
3)上部分に本人のサイン入りである事
(今書いちゃ駄目とは言われなかった)
4)身分証明書を持って本人が交換に来る事(本人死亡等の場合は諦めず相談した方が……)
■アメックス発行以外はケースバイケースのようです。うちはあさひ銀行で買ったのですが、外貨を扱えない小さな銀行で買うと大概アメックス発行のようです。(逆にこれで助かった)今はもうない小さな銀行で買ったからとあきらめず、裏面中央を確認してみて下さい。アメックスのマーク入りなら私と同じで現金化OKです。
■むかし海外旅行してた人は案外どこかに「レートが良くなったら現金化しよう」と思ってTCを塩漬けにしたまま忘れているかもしれないから確認してみて下さい。これからどんどん現金化できなくなります。アメックス発行のTCであっても海外で使えない事態になっているそうです。
■なお、日本国内ではTCは日本円にしか交換できないそうです。(選択肢がない)外貨に換えたい場合はその外貨の国まで行って交換だそうですが、TCから現金への交換は拒否される事が多くなっているそうです。
■うちは辛うじてセーフだった……お金は車の整備代に回します~~
『越谷吾山 方言に憑かれた男』 杉本つとむ(さきたま出版会)より
●まえがき
吾山の『物類称呼』は江戸期最大最高の全国方言辞典であることはいうまでもありませんが、二十世紀、敗戦前まで、一人の手になるこうした全国的規模の方言辞典は存在しませんでした。まことに稀有にして絶賛すべき一大労作です。しかし多くの日本人からはほとんど忘れ去られ、わずかにこの方面の専門学者によって、その功業が受け止められ、発展させられているにすぎません。おそらく越谷市民でも、埼玉県民にあっても、――〈渋沢栄一〉は三歳の童児といえども耳にしているでしょうが――ほとんどの人は越谷吾山の名も存在もしらないことでしょう。
現代では日本民俗学の祖と仰がれる柳田国男への影響もあり、〈顕彰碑寄付金人名簿〉でも判明するように、故東大教授、橋本進吉をはじめ東条操、志田素琴(義秀)など言語学、国語学、方言学、俳諧研究家が、吾山の業績に賛辞をおくっているのです。
わたくしは、先に吾山の著書『物類称呼』(八坂書房・生活の古典双書)を翻刻し、総索引を付して出版しました。(中略)しかしこれまで吾山のことについて志田素琴氏の小冊子以外にまとまった略伝や著書の考察はありません。同書は約百ページの小本で、昭和九年、越谷吾山翁記念事業会(代表、会田利次郎)で、非売品として、百五十回忌法会を記念して発行したものです。その点、今回はできるかぎり資料をあさり、かつは吾山の生きた時代、江戸文壇と俳諧など、いわば吾山の活躍した舞台を描写しつつ、吾山が研究しまとめた、全国方言・民俗への考察の成果を検討しました。あらためて、方言学者、民俗学者としての吾山の人物像を示すことにしたわけです。
吾山の研究は当時、十八世紀のヨーロッパの方言研究と比較しても、決して劣ることのない大きな仕事であったといえます。一埼玉県民の文化的財産としてだけではなく、ひろく、日本人のことばや民俗の原点をさぐる記念碑とすべき業績として、かつは吾山没後二百二年を記念する鎮魂の譜として、〈越谷吾山〉を世におくることとしました。大方の御愛読と御叱正を切にお願いしておきます。
末筆ですが、早稲田大学図書館、東京大学図書館、県立富山図書館に厚く御礼申し上げます。
一九八九年六月四日
中国・北京にて 著者 識
最初の方だけ抜き書きしましたがこの本面白いです。
【小田原と外郎(ういろう)家】
(パンフレット転載、読みやすいようにテニヲハ等直しています)
■1495年に小田原を平定した北條早雲は、京都の朝廷に仕えていた外郎家五代目・外郎宇野藤右衛門定治を招き、朝廷との外交役としました。
■外郎家は中国で約一千年、日本で六百数十年続いている家で、初代陳延祐(ちんえんゆう)は元に仕えていましたが、元の滅亡と共に日本に帰化し、中国での役職名・礼部員外郎(れいぶいんがいろう)の外郎をとって、役職名と区別するため「外」を「うい」と読ませて「外郎」と名乗りました。医術と占いに優れていたので、将軍・足利義満から京都の招かれましたが、最後まで行かず、博多で生涯を閉じました。
■かわりに二代目・宗奇(そうき)が朝廷に仕えました。延祐の持参した家伝の薬「霊宝丹(れっぽうたん)」は朝廷に珍重され、宗奇は朝廷の命をうけて明にわたり、実家から薬の処方を持ち帰りました。これが薬の「ういろう」です。
■また、宗奇は朝廷で外国使節の接待に供するための菓子を自ら考案しました。これが菓子の「ういろう」です。どちらも外郎家のものであることから「ういろう」と呼ばれました。なお、薬のういろうはのちに天皇から「※透頂香(とうちんこう)」の名をいただきました。
※大切に扱い、丸薬を呑むときは冠の隙間から取り出していただく……この様子を天皇は透頂香と詠んだのでした
■五代目定治は小田原へ来住する際、菓子の製法を弟に残してきましたが、京の外郎家はその後、室町幕府とともに兵火にかかり、世継ぎも無く絶家し、その時仕えていた職人等によって菓子の製法は全国に広まりました。一方、薬の製法は小田原の外郎家が一子相伝で現在も伝えています。
■豊臣秀吉が北条家を滅ぼした時、北条一族家臣は城下に残さない方針でしたが、外郎家だけは特別で残され、以後外郎家は薬を一般に売り出し、医薬の方に専心する事になりました。そして江戸時代には宿老(しゅくろう)として、小田原のために尽くしました。
■享保年間、歌舞伎役者・二代目市川団十郎は持病の咳と痰のため台詞が言えず、舞台に立てずに困っていました。その時、薬のういろうのことを知り、この薬によって全快しました。お礼の気持ちで「こういう薬もある事を知らせたいから」と舞台で上演することを申し出ました。外郎家は宣伝になることを恐れて固辞しましたが、再三の申し出に上演を承知し、こうして市川団十郎の創作による歌舞伎十八番「外郎売(ういろううり)」の台詞が誕生しました。
■明治に入ると、室町時代から貴紳の接待の為に作っていた「菓子のういろう」も市販するようになりました。
■外郎家は朝廷から十六の菊の紋と、五七の桐の紋を与えられていましたので、五代目定治が小田原に八ツ棟造りの建物を建てた時、天皇より祝いの言葉を賜りました。このため八ツ棟は壊れると建て直すのが代々の遺言となり、その回数から小田原地震の回数が察せられます。
■こうして北条早雲の時代から五百年、外郎家は今も小田原でその伝統を守り続けています。明治十八年築の蔵を利用した博物館にて、外郎家にまつわる品々を展示しております。
※転載終わり。他人と一緒の行動だったので博物館は見学できなかった。残念!
追記:初代外郎さんは現在でいうところの浙江省出身で元の順宗皇帝に仕えていたそうです。