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[03/11 響由布子]
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響由布子
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日記は数ヶ月ごとに整理しています。
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海から見た衣と装いの文化

【要約】 自分にとって面白かった部分のみです。他の本からの情報も混ぜてたメモですので正確さを求める人は下記の本をぜひどうぞ。
(「古代日本海域の謎 海からみた衣と装いの文化」新人物往来視野より)
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・魚皮をなめして着る文化はおおむね北緯40度~60度の間の水際に見られる
・特殊な技法を使わないと魚皮を実用的になめすことが出来ない
・魚皮のなめし加工には魚卵か動物の脳髄が使われる
・日本の奈良時代の記録の中に、病気で死んだ牛馬の脳髄を取り分けて献上させる記述があって、これがひょっとしたら魚皮なめし加工のためのものかもしれない。実際に地方の遺跡の中から脳髄をわざわざ取り出したと思われる牛が見つかっている。
・考古学上において「ない」という事は「なかった」を意味しない
・随分前に遺跡内の植物の遺物を植物学者に鑑定依頼したら、単なる枝だと思っていたのが「これは立派な加工物、道具です」と言われたことがあった。それまで道具の遺物といえば石器・土器を意味していてそれ以外のものは考えてなかった=考古学上「ない」。
・ところが新たな気づきで「あった」になった。⇒「ない」は「無かった」とイコールではない。
・つまり魚皮文化が日本に根付いていたかどうかはまだ正確には分からない。今まで「魚皮」を視野に入れて発掘調査をしてきてなかったので見落としているかもしれない。
・(脳髄をわざわざ取り分ける理由としては有力かなと←なめし技術の到来)
・魚皮は軽くて風を通さず天然の防水加工なので表地としても裏地としても非常に良いそうです。
・シベリア・アムール川流域から出土した新石器時代の土器が縄文時代早期の土器と非常によく似ている(絡条体圧痕文)
・ソビエトの学者が来日した折に持ってきた40点ほどの石器(黒曜石)の原産地、2/3が日本だった。男鹿半島産、隠岐島産もあった。時期は旧石器時代終わり~新石器時代初めころ。
・大陸から文化が来ただけではなく日本からも文化が行ってる
・北海道(アイヌ)を中継地点に文化交流?
・新石器時代の日本で麻が出土したが大陸からきていてもおかしくない
・中国と日本では「錦」の意味が少し違う。日本はその色彩を表す言葉と考えられるのではないか。「丹(に)」「紫(し)」「黄(き)」秋の山の色。
【これは私の感想】
大昔の日本列島(日本海側)では男女の衣装が明らかに違っていた。シベリアなどでも男女の衣装が違っている。←これって男女によって寒さに強い、弱いの違いがあるからかもしれないと思った。それと行動様式の違いが衣装の違いに出てくる。
女の方が出産育児があるので皮下脂肪をため込みやすい=寒さに強い。また巣ごもりは女で外で食べ物取ってくるのが男という生活だと衣装を違わせないと合理的ではないのかなと。
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3の霊力(メモ)


【要約】自分の興味でメモったものです。


(「日本人の心をとらえる3の霊力に迫る」 井沢元彦 旅行読売出版社)


・1は他の排除、2は対立、3は和、協調を表意味する。


・「三大ナニナニ」というまとめはとても多い「三大祭」「日本三景」等。


・ヤタガラスの脚は三本


・天皇の権威を象徴する道具も三種


・平安時代の書物の中に「日本三大建築は【雲太、和二、京三】とあるがこれは出雲太郎、大和二郎、京都三郎の意味である


・それぞれが出雲の神殿、大和の東大寺、京都御所を指すものとされている。


・出雲の神殿は「国譲りの場」、大国主命と天照大神の話し合いの場である


・東大寺は仏教、京都御所は天皇の象徴である。


・十七条憲法の順番がまさにこれ。一、和(話し合いによる解決)、二、仏教の尊重、三、天皇への服従、の順である。 ※並び順に大きな意味がある


・十七条憲法は「命令」ではなく「日本人は昔からこうだったのだよ」という「事実の指摘」なのである(全文を読み下してみよう)


・『古事記』でも冒頭に現れるのは三人の神(三柱)


・あめつちのはじめてひらけるとき、たかまがはらにあらわれるかみの名はアメノミナカヌシノカミ・タカムスビノカミ・カミムスビの神


・日本の神の祖であるイザナミ・イザナギから生まれた神も三柱。アマテラス・ツクヨミ・スサノオ。


・ところがそれぞれ三柱の中でまったく働かない神が混ざっている。


・ツクヨミとアメノミナカヌシである。


・記述もほとんどないにもかかわらず、歴史上から落ちこぼれる事もなく三柱の一として敬われているのはなぜか。


・これこそが「日本」である。「和をもって尊しとなす」である。


・こうした日本の原理を心理学者の河合隼雄氏は「中空構造」と呼んでいる。


・「キリスト教神話では、中心に存在する唯一者の権威、あるいは力によってすべてが統合される構造をもっている。統合によらず均衡に頼る日本のモデルでは、中心は必ずしも力を持つことを委せず、うまく中心的な位置をしめることによって、全体のバランスを保つのである。」(「中空構造日本の深層」中央公論新社刊)


・日本人にリーダーシップがない、といわれるのも、実はここに理由がある。


・リーダーシップとはあくまで一神教世界の話であって、日本ではそれは「わがままを主張する」ことだから、「和を乱す」悪い事になってしまう。


・織田信長のようなリーダーは長続きしない(日本では)


・ただし乱世の場合は、「信長」の出番である。


・今は乱世である。国際競争に勝つには日本人に嫌われるリーダー・タイプでないと難しい


日本の呪術(メモ)

【自分用メモ】とても分かりやすかったので一部抜粋抜き書き。

すぐわかる日本の呪術の歴史

この本分かりやすいしカラフルで絵が多いし(私にはこれが大事です!)
年表も付いてておススメです~。


◆原始的な呪術の系譜
 日本の呪術の流れを見ると、アミニズムに立つ呪術の時代から、陰陽五行説の呪術の時代を経て、近代科学のもとで呪術が非合理とされた時代に至る流れがある。この中の陰陽五行説は、日本ではさまざまな宗教と結びついて、政治に大きな影響を与えてきた。
 旧石器時代の日本でも、呪的行為がなされたと思われる。そして、縄文時代の遺跡からは、明らかに呪術に用いたと見られる土偶などの多様な遺物が出土する。
 それらは、自然の精霊を祀ったものであると考えられている。そして、縄文的な自然崇拝は、大和朝廷のもとで神道の原形へと発展していく。
 それは、首長霊信仰と呼ぶべき、集団の指導者の祖先を神として祀り、その神が自然の精霊にあれこれ働きかけをすると考えるものである。これによって、太陽神であり、皇室の祖先神である天照大神がつくられた。


末國善己さん

文芸評論家でアンソロジストの末國善己さんからご本を頂戴致しました!
ありがとうございます!
アンソロジスト(編纂者)の厳しい目で選んだ短編集ですので中身が濃いです。
皆様も書店で見かけましたら是非お手に取って下さい。
版元サイトはこちら⇒http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488439125

「儒」の意味


(引用開始)
 日本の白川静氏も、字形から推して「儒」はもと雨乞いのときに犠牲にされ焚かれた巫祝(ふしゅく)のことをいうのであって、後しだいに一般の巫祝の下層の者を指して「儒」と呼ぶようになったのであろうという。そして、孔子はその巫祝の子であり、巫祝社会に成長した人であると推定している。
※ほかに「儒」は馮友蘭(ふうゆうらん)氏のいう勉学を修めた専門職の知識人の意味、胡適氏のいう殷の遺民を意味する説があるが、この三人に共通しているのは孔子を表現する「儒者」の「儒」は彼のバックグラウンドを意味しているのだということらしい(乱暴な私の要約)
(「儒学のかたち」関口順 東京大学出版会 p4より)


ざっくりと要約すると、あまたある儒学の中で戦国時代の変化を生き延びられたのが孔子の儒学で、それ以外の儒学はすたれてしまった。やがて孔子一門は「儒」は自分たちの学問であるという自負を持ち始める…(実際そうなる)

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「儒」の始まりは殷王朝からのようである。その昔マックス・ウェーバーは「中国に祭祀王(プリーストキング)はいなかった」と言ったが彼の死後に大量の殷の遺物が発掘され、殷が祭祀王の王国であったことが分かってきた。

殷の初代王である湯(とう)はまさに巫祝(ふしゅく)王であった。夏を滅ぼした後に七年も干ばつが続いたことで、湯は自分を犠牲(いけにえ)にする。その時のいけにえになるための作法がまさに「儒」なのである。

大量に発掘された遺物から推測するに、殷は王が死んで交代するとき多くの犠牲(いけにえ・動物も人間も)を道連れにして神に祈っていたようだ。ところが周が殷を滅ぼした時、周は犠牲をやめる事にした。(新しい王が徳でもって世を治めるというのは易姓革命の大義名分。犠牲廃止は徳の一つと考えられていた?)

周の時代からは犠牲は殆ど見られなくなった。それは同時に今までの「儒」が否定されることでもあった。2000年も続いていると言われる「儒」であるが、実は紀元前の殷の時代が儒の最盛期でありそれ以後はずっと衰退期ともいえるのではないだろうか。それを食い止めようと論理体系などを整えたのが孔子(と孔子一門)。

孔子はもともとは殷の遺民である。死ぬときに「丘(孔子の名前)や殷人なり(自分は殷の人なので、殷の作法で葬式をしてくれ)」と言った。
※殷の遺民は宋に送り込まれそこで殷の祖先を祀るよう命じられていたので、「孔子は宋人なり」とも表現されているが内容は同じ事。孔子は殷の文化を受け継いでいた。

そして「儒」は孔子たちによって葬送から離れ始める。葬送の作法などにこだわった儒家は次々衰退してゆき、残ったのは論理体系を整えた孔子一門だけとなり、次第に原始的な「儒」は孔子一門の作り上げた「儒」へと集約されてゆく。

※私がめっちゃ要約して作ったまとめなので正しい知識を得たい人は本みてね!
「儒教三千年」陳舜臣朝日文芸文庫です

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しかしここであらたな疑問が。
日本では「竜神様に生贄を差し出し」たり、「城や橋を作るのに人柱をし」たり、「名君のお殿様が死んだ時家来も殉死し」たり、話として割とすんなり受け入れてしまっています。
何でだろう? 大昔から中国大陸と交易があったはずで、儒を取り入れて国造りしたはずなのに、「儒」の考えが当然入ってきているはずなのに、どうして人柱や殉死の考え方が津々浦々に受け入れられてしまったんだろう? というのが今日の疑問でした。

ちなみに儒学者としても著名な菅原道真は「土師氏」出身です。土師氏の始まりは野見宿禰。だいぶ昔、野見宿禰が古墳に人を埋め殉死させる事に反対し、その代りに埴輪を埋める事を進言しました。その事に感心した天皇から「土師部(墳墓の周辺の土関連の仕事する人たち)」を統率する「土師氏」の姓を賜りました(と言われていますが考古学上では否定されているようです)。
この時すでに「生贄はいかん」「人柱はダメ」という考えがあって、天皇みずからがその考えを受け入れていたにもかかわらず、です。
⇒これについてfacebookにて「道教も入ってきてる」というようなツッコミをいただきました。そりゃそうですが、道教はむしろ庶民が好み、儒教は管理する側(決定権がある側)が好んでいたのでは。




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