忍者ブログ
雑多な日々の記録 (右上の「裏サイト入り口」は広告で私とは関係ありません) (このblogはアクセス拒否設定は一切使っておりません) (業者のコメントはブロックします)
最新CM
[10/31 響由布子]
[10/28 響由布子]
[10/28 しょっぱめの猫]
[10/28 響由布子]
[10/28 しょっぱめの猫]
プロフィール
HN:
響由布子
性別:
女性
趣味:
ペットと遊ぶ
自己紹介:
日記は数ヶ月ごとに整理しています。
適当に削除していますので検索でたどり着いても該当の日記が無い場合があります。
※連絡先はhibikiyuko〒gmail.com(〒を@に直してください)
ブログ内検索
アクセス解析
[1]  [2]  [3]  [4]  [5]  [6]  [7]  [8]  [9

運慶展

「運慶」展見てきました! すごく良かった!(セックスの感想みたい…)
でも本当に凄く良かった。平日なのに入場制限してたくらい人気があるのは当然かと思う。作務衣姿で頭ツルツルの人が散見されましたがお坊さん? が来てるのかな?


運慶の作はやっぱり素晴らしい! お父さんのも凄いけれどやっぱり運慶。弟子の作品はそれなりにこじんまり綺麗にまとまっているけど運慶は凄い!!!
玉眼と言って目玉を入れた仏像が鎮座していたのですが、作り方が書いてありました。レンズ状に削った水晶の裏側に顔料で目玉を描き、そこに白い綿や和紙を詰めて白目を表現。目をくりぬいてある空洞の顔の裏から小さな竹の釘を楔替わりに斜めに打ってとめてあるのだそうです。なんという手間暇。
タイの仏像も運慶の像も細部が精緻で素晴らしいのですが、タイの方は見ていると笑顔になってしまう癒し系で、運慶の方は見てるとなんかこう、気が飛んじゃうんです。両方とも「情動」です。車のデザイナーUさんによると、運慶は下から見上げられる事を考慮してデフォルメして(上を大きく)作ったのだそうです。弟子たちにはその技術が無かったそうです。なるほど。天才が天才とみられるゆえんですね。

今ちょうど博物館の庭園も開放していたので見てきました。
携帯を忘れてしまって写真を一枚も撮れなかったのが残念です。

すさんだ心が洗われた一日でしたとさ。めでたしめでたし。


【追記】
場所は上野の国立博物館です~。
芸術品のすばらしさもさることながら、日本の運送業のポテンシャルにも感動した一日でした!!!

同じ「平成館」一階で展示している旧石器・縄文時代の展示物も内容が濃くて素晴らしかったです。数年前にリニューアルしたのね。
PR

氷川神社ざっくりまとめ2


【氷川神社の真実展まとめ2】


開催中の「氷川神社の真実」展と、さいたま市立博物館で開催されている「氷川神社」展のざっくりまとめです。


・氷川神社の神職組織は時代によって変化しているが、近世末期からは複数の神主家と複数の社人家、その下の下社人家というピラミッド構造になっている。


・神主は角井家(西角井)、角井家(東角井)、岩井家の3家である。東と西というのは参道を挟んで東と西に住居が分かれていたから。


・社人家は加藤・井上・磯部家(←社務を担当)と、杉山善三郎・堀江家(←巫女と神楽担当)。


・下社人家は潮田・高橋・杉山勘五郎家(←下社人家は清掃などを担当)


・江戸時代の氷川神社は神仏習合で社僧もいた(その話はたぶん別に書きます)


・そもそもなぜ神主が3家(江戸初期までは4家)いたかというと、本殿の中が仕切られていて神が複数存在するから(これが氷川神社の大きな特徴と教わった気がします←私)


・図の説明。江戸初期には神主は4家だった。金杉家(のちの氷川家)は門客人社(アラハバキ神と言われている←注:私)、内倉家(のちの西角井家)はカグツチ神(簸王子宮)、岩井家は男体宮、角井家(のちの東角井家)は女体宮の祭祀を担当していた。


・余談だがカグツチ神が正式に祀られるようになったのは、修験道の影響という説がある。氷川神社はその当時、修験道の霊場としても結構有名だったらしい。(火渡りの神事などがかつてあった)


・延宝七年、神主の一人である氷川家の当主氷川内記が改易になり、氷川神社は3家が年番で神主を務める事になったが、明治になるまで度々「三家は平等である」という御触書が出された。つまりこの三家でなにがしかの勢力争いがあった……かもしれない。


・三神主年番体制が終わるのは明治元年。明治天皇行幸を機に本殿を整理した。男体宮を中心に据え、女体宮と簸王子宮は摂社に変更させた。


・岩井家が神主となり、内倉家と角井家(のちの東西角井家)は禰宜となった。


・手書きの家系図の方の武蔵武芝の娘二人のうちの一人が家を継いだが、注目すべきは結婚相手で菅原道真の子孫である正好と結婚、氷川神社の祭祀権が一時菅原家に移った(という事になる)。しかしこの話は西角井家文書の家系図しか論拠が無く、信憑性は分からないという人もいる。


※よく話に出る氷川神社・中山神社・氷川女体神社の3つが一直線上に並び……という話は昭和30年頃出現した作り話だそうです。一直線に並ぶのは氷川神社・中氷川神社・奥氷川神社の方との事。

氷川神社ざっくりまとめその1

【氷川神社の真実展】その1
さいたま新都心・コクーン2ホールで開催されている「氷川神社の真実」展とさいたま市立博物館で開催中の「氷川神社」展のざっくりまとめその1です。
-----
・氷川神社のある場所には馬蹄形をした縄文後期~平安時代にかけての住居跡があり、馬蹄形の中心には祭祀の跡がある
・今でも境内の砂利をよく探すと縄文土器の欠片を見つける事が出来る(野球場などを作った時に掘って大量に出た砂利がそのまま敷き詰められているため)
・東日本総鎮守の役割を課せられたのは明治維新時で、それ以前の氷川は今と同じではない。
・氷川神社には今でも綺麗な水が湧き出している場所があり、縄文時代に住居跡があった事から推測するにその時代から水が湧き出していたのではないか(依り代の可能性?)
・氷川神社が文献に初めて現れたのは『新抄格勅符抄』
「氷川神 三戸 武蔵国 神護二年七月廿四日符」
・これは奈良時代中期の神護二年(766年)に朝廷から封戸三戸が与えられたという記録。
・当時、武蔵国の神社で封戸三戸は破格の扱いであった(ほかにない)
・これは当時、氷川神社を奉齋していた「丈部直不破麻呂(はせつかべのあたいふわまろ)」の功績によるものであったと考えられている
・不破麻呂は神護景雲元年(767)に武蔵宿禰(すくね)の氏姓を授かり、武蔵国内の神祇祭祀統括する武蔵国造に任命された
・不破麻呂の娘家刀自は采女として朝廷に仕えたが地方出身女官としては破格の扱い(采女なのに従四位下)
・東西角井家は武蔵不破麻呂の家系であり物部忠正家系でもある(西角井文書家系図より)←※ただし家系図の内容の信憑性についてはちょっと分からない。
・物部=出雲系、氷川の名前の由来は緋川(出雲にあった川の名前)という説もあった

えくすたしいしょっと

昨日発行の日刊ゲンダイさんで拙著が紹介されました。
ありがとうございます~~♡♡♡励みになります!

トイレ個室にて2

昨晩行った居酒屋さんでの一コマ。
トイレの中にコミュニケーションノートがあった。
中の文面もいくつか撮影してきちゃった。
でもこういうのって衛生的にいかがなものなんでしょう?
まあ、携帯撮影もたいがいですけどね(汗)

中身は、料理がうまいとかまずいとか、注文間違えたスタッフがさいてーとか、好きな人の赤ちゃん産みたいー、とか、女に生まれて良かった! とか、子連れでもいい感じでまったりできました~、とか、今日告白された! とか色々でした。
クスリ売りますとか怪しい電話番号とかは書いてなかった
代々木八幡なんていうお上品な街だったからだろうか。





忍者ブログ [PR]

graphics by アンの小箱 * designed by Anne