■先日、品川で史跡探訪してきたのですが、そこでこんなお墓を見ました(写真1)。
板垣退助の祖父のお墓(よそからこの場所に持ってきたもの)です。
墓石に刻まれた文字を見て「ン?」と思いました。
一番上に「圡州」と書いてあります。土州=土佐らしい。
でも何で「圡」? 隣の「州」の文字も???
■たまたま別場所で見つけて「土に点」の事が気になっていたところでした。またこの字を見つけたというので、これも何かの縁だろうと調べました。
■別場所で見つけたというのはこちら(写真2)です。これは奥多摩の奥氷川神社近くの豆腐店です。
■ちょうどこれを発見するに至る直前に、「土方歳三の苗字は実は土に点が付く」という記述を見つけたので気になって写真を撮りました。日野から奥多摩は山伝いで行き来がありそうです。親戚かなと。
■この「圡」については諸説あるようですが、面白かったのは土を使う職業の人(埴輪作り、食器作りなど)に使う文字で、しかも点の位置は土の状態を表すというものでした。点が上の方にあると●●な土、点が下の方につくと××な土、みたいに、土そのものの状態を表すのではないかという説です。(苗字研究第一人者の丹羽基二先生の説)
■しかし、私は懐疑的でした。いったい土の様子にいかほどの重要性があろうかと。殆どの人にとっては土が粘土だろうが赤かろうがあまり気にならないでしょう。また、いくら埴輪作る人であっても「絶対同じ土じゃなきゃ作りません!」というものでもないのでは。土のブレンドもするだろうし。
■さらに調べてみました。どうも「圡」も「土'」も古代中国の漢字のようです。現代の「土」は最終到達形としての正字、でも意味も読み方もこの三文字はまったく一緒なんですね。
(中国語辞典ではそのように登録されています)
■もし本当に土の様子で点の位置を変えていたくらい気にするなら、当然読み方も変えておかしくないんじゃないのかな。つまり読み方一緒=さしたる区別はない、と考えていいのでは。
■それぞれの家族が、バランスとか字画とかセンスで選んだ文字なのではないかなと。ただしこの文字を使った家は、古代中国の文字に造詣のあるお家柄という事で良いのではないかなと私は思いました。
■板垣退助祖父の墓の「州」という字も古代中国の字に似たのがありましたが、こちらは全く同じのはありませんでした。みんないい加減なんじゃないのかな。日本の宗教通史を知るとそう思えてくるんですけど……。
参考)
◆圡(異体字)
https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9C%A1
◆(異体字)
https://ja.wiktionary.org/wiki/%F0%A1%88%BD
◆異體字「土」興「圡」的字義比較
http://chardb.iis.sinica.edu.tw/meancompare/571F/5721
10人中8人が「二番煎じは良くない」と思っていました。
10人中9人が「新しい事をしたい」と思っていました。
10人中10人が失敗を避けたいと思いました。(査定に響くので)
10人中3人が「どうせ失敗するんだから斬新にしようぜ」と思っていました。
投票しました。結果は
案A……4票(2票は二番煎じOKな人、2票は失敗したくない人)
案B……2票(斬新を求め、かつこの案は成功すると信じる人)
案C……2票(失敗しても低予算なら傷が深くない事を選考基準第一位にした人)
案D……2票(面白さ第一! この案なら失敗しないと思ってる人)
結果。10人中8人が「二番煎じはなぁ」「新しい事をしたい」と思っていたはずなのに、投票により二番煎じ&無難な案Aが選ばれてしまいました。
これが多数決主義です。
一方、民主主義(皆である程度話し合い妥協点を見つけ合う)の場合どうなるかシミュレーションしてみますと、案Aは大多数が支持していないので話し合いによって一番最初に消されます。
このように、多数決主義と民主主義は結果が違ってきます。
多数決主義で選ばれた案は必ずしも全員の意志に近くないのです。
これは多数決主義の欠陥でもあります。
多数決主義は独裁を生みやすいと言われています。
もう一つの欠陥は、少数派は永遠に日の目を見ないという事態が出て来る事です。
では多数決主義と民主主義の選好結果を、イコールに近づけるにはどうすれば良かったのでしょう。
一つは質問の方法を変えることです。
例えば「案A」と「案A以外」、という二者択一に持って行く事。
これが野党共闘という事になります。
ここで日本の選挙制度の欠陥の話に繋がります。
よって、野党共闘が思想的にふらついているなどという話はミスリードなのです。選挙制度の欠陥を補うためには、どうしても二者択一に持って行かないと永遠に民意を救いあげられないのです。
現況に反対する人たちの選択肢が増えると、多数決主義(=現在の投票制)の結果と民意の結果が離れてしまう。
多数決主義と民主主義の違いについて知ってから今回の選挙のゴタゴタを見直してみると、またちょっと違う思いが沸いてくるのではないでしょうか。(私はそうでした('ω'))
※別場所でまみ先生から教わった事を咀嚼してこのような話にまとめてみました。どうかなあ~。
参考リンク:
http://pari.u-tokyo.ac.jp/publications/column149.html
【氷川神社の真実展まとめ2】
開催中の「氷川神社の真実」展と、さいたま市立博物館で開催されている「氷川神社」展のざっくりまとめです。
・氷川神社の神職組織は時代によって変化しているが、近世末期からは複数の神主家と複数の社人家、その下の下社人家というピラミッド構造になっている。
・神主は角井家(西角井)、角井家(東角井)、岩井家の3家である。東と西というのは参道を挟んで東と西に住居が分かれていたから。
・社人家は加藤・井上・磯部家(←社務を担当)と、杉山善三郎・堀江家(←巫女と神楽担当)。
・下社人家は潮田・高橋・杉山勘五郎家(←下社人家は清掃などを担当)
・江戸時代の氷川神社は神仏習合で社僧もいた(その話はたぶん別に書きます)
・そもそもなぜ神主が3家(江戸初期までは4家)いたかというと、本殿の中が仕切られていて神が複数存在するから(これが氷川神社の大きな特徴と教わった気がします←私)
・図の説明。江戸初期には神主は4家だった。金杉家(のちの氷川家)は門客人社(アラハバキ神と言われている←注:私)、内倉家(のちの西角井家)はカグツチ神(簸王子宮)、岩井家は男体宮、角井家(のちの東角井家)は女体宮の祭祀を担当していた。
・余談だがカグツチ神が正式に祀られるようになったのは、修験道の影響という説がある。氷川神社はその当時、修験道の霊場としても結構有名だったらしい。(火渡りの神事などがかつてあった)
・延宝七年、神主の一人である氷川家の当主氷川内記が改易になり、氷川神社は3家が年番で神主を務める事になったが、明治になるまで度々「三家は平等である」という御触書が出された。つまりこの三家でなにがしかの勢力争いがあった……かもしれない。
・三神主年番体制が終わるのは明治元年。明治天皇行幸を機に本殿を整理した。男体宮を中心に据え、女体宮と簸王子宮は摂社に変更させた。
・岩井家が神主となり、内倉家と角井家(のちの東西角井家)は禰宜となった。
・手書きの家系図の方の武蔵武芝の娘二人のうちの一人が家を継いだが、注目すべきは結婚相手で菅原道真の子孫である正好と結婚、氷川神社の祭祀権が一時菅原家に移った(という事になる)。しかしこの話は西角井家文書の家系図しか論拠が無く、信憑性は分からないという人もいる。
※よく話に出る氷川神社・中山神社・氷川女体神社の3つが一直線上に並び……という話は昭和30年頃出現した作り話だそうです。一直線に並ぶのは氷川神社・中氷川神社・奥氷川神社の方との事。