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「儒」の意味


(引用開始)
 日本の白川静氏も、字形から推して「儒」はもと雨乞いのときに犠牲にされ焚かれた巫祝(ふしゅく)のことをいうのであって、後しだいに一般の巫祝の下層の者を指して「儒」と呼ぶようになったのであろうという。そして、孔子はその巫祝の子であり、巫祝社会に成長した人であると推定している。
※ほかに「儒」は馮友蘭(ふうゆうらん)氏のいう勉学を修めた専門職の知識人の意味、胡適氏のいう殷の遺民を意味する説があるが、この三人に共通しているのは孔子を表現する「儒者」の「儒」は彼のバックグラウンドを意味しているのだということらしい(乱暴な私の要約)
(「儒学のかたち」関口順 東京大学出版会 p4より)


ざっくりと要約すると、あまたある儒学の中で戦国時代の変化を生き延びられたのが孔子の儒学で、それ以外の儒学はすたれてしまった。やがて孔子一門は「儒」は自分たちの学問であるという自負を持ち始める…(実際そうなる)

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「儒」の始まりは殷王朝からのようである。その昔マックス・ウェーバーは「中国に祭祀王(プリーストキング)はいなかった」と言ったが彼の死後に大量の殷の遺物が発掘され、殷が祭祀王の王国であったことが分かってきた。

殷の初代王である湯(とう)はまさに巫祝(ふしゅく)王であった。夏を滅ぼした後に七年も干ばつが続いたことで、湯は自分を犠牲(いけにえ)にする。その時のいけにえになるための作法がまさに「儒」なのである。

大量に発掘された遺物から推測するに、殷は王が死んで交代するとき多くの犠牲(いけにえ・動物も人間も)を道連れにして神に祈っていたようだ。ところが周が殷を滅ぼした時、周は犠牲をやめる事にした。(新しい王が徳でもって世を治めるというのは易姓革命の大義名分。犠牲廃止は徳の一つと考えられていた?)

周の時代からは犠牲は殆ど見られなくなった。それは同時に今までの「儒」が否定されることでもあった。2000年も続いていると言われる「儒」であるが、実は紀元前の殷の時代が儒の最盛期でありそれ以後はずっと衰退期ともいえるのではないだろうか。それを食い止めようと論理体系などを整えたのが孔子(と孔子一門)。

孔子はもともとは殷の遺民である。死ぬときに「丘(孔子の名前)や殷人なり(自分は殷の人なので、殷の作法で葬式をしてくれ)」と言った。
※殷の遺民は宋に送り込まれそこで殷の祖先を祀るよう命じられていたので、「孔子は宋人なり」とも表現されているが内容は同じ事。孔子は殷の文化を受け継いでいた。

そして「儒」は孔子たちによって葬送から離れ始める。葬送の作法などにこだわった儒家は次々衰退してゆき、残ったのは論理体系を整えた孔子一門だけとなり、次第に原始的な「儒」は孔子一門の作り上げた「儒」へと集約されてゆく。

※私がめっちゃ要約して作ったまとめなので正しい知識を得たい人は本みてね!
「儒教三千年」陳舜臣朝日文芸文庫です

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しかしここであらたな疑問が。
日本では「竜神様に生贄を差し出し」たり、「城や橋を作るのに人柱をし」たり、「名君のお殿様が死んだ時家来も殉死し」たり、話として割とすんなり受け入れてしまっています。
何でだろう? 大昔から中国大陸と交易があったはずで、儒を取り入れて国造りしたはずなのに、「儒」の考えが当然入ってきているはずなのに、どうして人柱や殉死の考え方が津々浦々に受け入れられてしまったんだろう? というのが今日の疑問でした。

ちなみに儒学者としても著名な菅原道真は「土師氏」出身です。土師氏の始まりは野見宿禰。だいぶ昔、野見宿禰が古墳に人を埋め殉死させる事に反対し、その代りに埴輪を埋める事を進言しました。その事に感心した天皇から「土師部(墳墓の周辺の土関連の仕事する人たち)」を統率する「土師氏」の姓を賜りました(と言われていますが考古学上では否定されているようです)。
この時すでに「生贄はいかん」「人柱はダメ」という考えがあって、天皇みずからがその考えを受け入れていたにもかかわらず、です。
⇒これについてfacebookにて「道教も入ってきてる」というようなツッコミをいただきました。そりゃそうですが、道教はむしろ庶民が好み、儒教は管理する側(決定権がある側)が好んでいたのでは。


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