「ラブレーのスカトロジー:糞尿は笑いの仕掛け」(筆者:壺齋散人)より転載保存
なるほどなぁ、勉強になります。
明らかに転載の範疇を超えちゃっているのですが、もったいなくて途中で切れないよ……済みません。
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「ラブレーのスカトロジー:糞尿は笑いの仕掛け」
フランソア・ラブレーの作品には、糞尿のイメージがいたるところにあふれている。ラブレーの作品を糞尿(スカトロジー)の文学とする見方も成り立ちうるほどである。
ラブレーにとって糞尿とは、人びとを開放的な気分にする陽気な物質である。それは上と下、聖なるものと矮小なもの、王と民衆との間にある垣根を取り払い、ゴタマゼすることによって笑いを呼び起こす。王も又民衆同様糞尿は垂れるものだし、淑女といえども例外ではないのだ。
カーニバル的な祝祭の笑いを追及したラブレーにとって、糞尿はまさに笑いの仕掛けの鍵ともなっていたのである。
近代の文化において、糞尿は人前から隠されるべきものであり、それに言及することは無作法のなかでも最も許しがたいものになってしまった。だがラブレーの生きたルネッサンスの時代にあっては、糞尿は毎日の生活のリズムの中で、人間が営むところの欠かせない生理現象の結果であったし、無視することなど考えられもしなかった。
糞尿は肉体から排出されたものではあるが、完全に無縁になったものではなく、肉体の面影をとどめているものである。また、肉体から分かれたという点では、生まれたばかりの子どもと共通するものでもある。だから、糞尿は人間にとってはなじみ深く、時には自分たちの肉体の一部のように扱われもした。
そうはいっても、糞尿はポジティブには受け取られない側面も有している。自分が生んだものとはいえ、いつまでも大事に保存されるべきものではなく、いづれは始末されるべきものであった。
ラブレーがとりあげたのは、糞尿のもつこのような両面価値的な性格だったのである。
(続きはリンク先にて)
http://poesie.hix05.com/Rabelais/05scatrogy.html