■所属する研究会によると、この画像の看板にはあやふやな点があるという。「岩附太田十郎氏房」と名乗った事は(少なくとも当時は)無いとの事。古文書によれば後北条の「北条氏房」が正しいらしい。北条氏房の母は武田信玄の娘黄梅院。
■その北条氏房の家臣である熊谷三郎左衛門が針ヶ谷陣屋の主となって土地を守っていた。そしてその陣屋があった辺りを主人の名前から三郎山と呼んだ。
■三郎左衛門には「るひいな」と言う名の隠れキリシタンの娘がいた。元和九年の江戸キリシタン弾圧により、夫権七郎と子の彦四郎は処刑されてしまった。
■しかし、二人がキリシタンになったきっかけである(と聞いた気がしたけど私の記憶違いかも…)「るひいな」は助命された。これは、当時二人の結婚を易で決めた竜派禅珠(寒松)が彼女の人生に責任を感じて奔走したからである。(夫や子の助命嘆願も同時にしていたが、間に合わなかった)
■竜派禅珠は直接将軍にモノ申せるくらいの実力者だったが何故そうだったかと言うと、彼は足利学校の校長をつとめていたから。
■るひいなは当時十八歳。夫と子が処刑されたことを聞き大変嘆き悲しんだ。これらの経緯は「寒松日暦」(川口市史近世資料編Ⅲ所収)に詳しい。
■るひいなとの関係は不明だが、川口芝の如意輪観音堂の阿弥陀如来坐像から胎内にあったマリア像と十字架が発見されている。(県博物館寄託))
■また、研究会のお方の意見では。当時水路は舟で往来できるような水量が無かったのではないだろうか(等高図などから推測)との事。←私は浦和なら水一杯あるから行けるのではないかなと思うのですが……
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