今、十月に〆切が来る短編を書いているが、これは自分にとっては印象深い小説になりそうな気がする。
私は空気を読んだり周囲と歩調を合わせたりが出来ない。だからいつもアンソロジーの中で一人だけ「未亡人」じゃなかったり明らかにトーンが暗かったりテーマが重かったりと、違和感ありまくりだと思う。
アンソロ編集のHさんや他の作家先生には本当に申し訳ないけれども、今の私には出せるものしか出ない。気遣いやら歩調合わせやら何もかもが後手後手で、今はより良い祝詞(小説)をいかにしてあげるかそれしか考えられない。誰にとってより良いのかというともちろん自分にとってであって、我侭といわれてしまうかもしれないが、今は、自分にとって良いものは他人にとっても良いはずだという信念を揺らがせたくない。
道場でも同じことで、結局は「いかにして技法をマスターするか」が私の参加第一義になっている。
今アンソロの原稿が3/4終わったところで一休みして、平岩弓枝の初期の短編を一字一句間違えずに書き写す作業に入っている。2~3作はやろうと思う。
なぜかわからないが、これをすることで自分は何かを会得出来るという確信がある。
今まで「御宿かわせみ」とか読んでもレベルが違いすぎて全然ピンと来なかったが、彼女の初期の作品は何か非常に無防備なもの(修行や苦悩の痕跡)が見えている。それがどこなんだかはハッキリとはわからないが私は私の動物的勘を信じたい。
結局文芸も他の芸術分野と同じで、自分が信じたものを世に送り出すのが芸術の絶対的正義なのだと思う。私を買うか買わないかは読者や業界が決めることだ。
他人の小説を書き写すことは多分絵画で言うところの模写(技法の勉強)なんだと思う。筆のタッチや色使い、構成を学ぶには模写はとても役に立つらしい。
理屈はともかく私はいま勘で生きたいです。
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