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[09/16 響由布子]
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[09/16 しょっぱめの猫]
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[09/06 響由布子]
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響由布子
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趣味:
ペットと遊ぶ
自己紹介:
日記は数ヶ月ごとに整理しています。
適当に削除していますので検索でたどり着いても該当の日記が無い場合があります。
※連絡先はhibikiyuko〒gmail.com(〒を@に直してください)
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勝海舟フォーラム

今日は勝海舟フォーラムの日。
色々とメモってきました。後ほど追記しようかと思います。⇒追記しました!




先日の勝海舟フォーラムの内容メモです。
走り書きなので100%正確ではないかもしれないので雰囲気を感じていただければと思います。
※敬称略です。
大久保家子孫大久保利泰⇒(大)
徳川宗家18代当主徳川恒孝⇒(徳)
榎本武揚子孫榎本隆充⇒(榎)
勝海舟子孫高山みな子⇒(高)
不明⇒(不)
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・利通は東照大権現をとても尊敬していた。家康からリーダーシップを学んでいた(大)
・私の名前の利泰の泰の字は画数の多い難しい字になっているが多分姓名判断(画数が偶数から奇数に変わるので)(大)
・大久保家は次男が牧野家に養子に行き、長男に子供が無かったので三男の息子が継承している。三男は自分の祖父で利通暗殺時に13歳だった(大)
・部下にやさしい仕事を振って自分は難しいのをやる。部下の失敗は自分の責任としてかぶる人だった(大)
・西郷さんとは兄弟のように仲が良かった。 西南戦争の時「西郷は絶対入ってない」と思って信じていた。利通の唯一の涙が、西南戦争に西郷が入っていたのを知ったとき。これで彼とは決別なのだと泣いた(大)
・西郷が死んだ時には泣かなかったのでそれが『大久保は冷血』と評された所以ではないか(大)
・徳川宗家18代当主である私は会津松平容保の孫。自分は幼少時に会津にいて会津弁で育った(徳)
・会津は早くから蝦夷や青森の海岸防衛をしていたので、早くから開国の必要性を訴えていた(海からの侵入を完全に防ぐのは無理と体感していた)(徳)
・会津の歴史はきちんと伝わっていない。いろいろな人が書いているが本当ではない、自分がそのうち本を出すつもりでいる(徳)←←←これは買いたい!(私)
・大久保&榎本は学習院の同級生。榎本家は明治41年まで向島に住んでいた(榎)
・榎本家の子供たちの幼名は兄・鍋太郎、弟・釜次郎。これは「鍋釜あれば食うに困らない」という父なりの気持ちだろう(榎)
・榎本は長崎海軍伝習所で航海と化学、物理、数学等を学んだ(榎)
・留学先のオランダで国際法を学んだ(榎)
・榎本の目的は、無禄の武士を連れて行って北の大地を開拓しながらロシアからの攻めをブロックしたかった気持ちがあったのではないか。根っこにあるのはみな同じ思いだろう「禄を失うであろう藩士を食べさせないとならない」という思い。(榎)
・獄中記書簡は28通(獄中で自分の命はもうないと思っていた)(榎)
・獄中で科学技術の論文を書いて出している。死を覚悟して死ぬ前に出そうと考えていた(榎)
・いつも持ち歩いていたメモ帳にいろいろ書き留めていた。官費留学させてもらった思い(国に対する感謝の気持ち)(榎)
・榎本は東京農業大学の生みの親。徳川育英会(戊辰戦争で負けた側の子弟に奨学金を出して教育支援する会)が農大の前身と言える。(榎)
・静岡のお茶畑を開墾したのは旧幕臣の下っ端の武士たちだった。明治維新後静岡に戻った徳川家に慕ってついてきた収入のない幕臣たちが静岡で刀を捨て鍬を持ち開墾。(確か徳)
・「静岡のお茶はとてもいいよ」とあちこちに薦めてくれたのが勝海舟。「静岡はお茶に向いている土地だよ」とお茶栽培を薦めてくれたのも勝海舟(徳か高)
・幕臣になる前の海舟の面倒を見ていたのが今の松坂市の人たち。「米だけに頼ってはいけない、それは危ない」という教えを受け、勝海舟は茶畑の作り方を含め農業全般を松坂市の人から学んだ。そのことをご縁で最近知った(高)
・徳川のおひざ元にあった沼津学校は最初は旧幕臣の子弟のみだったのが評判を聞いて全国から子弟が集まるように⇒静岡大学の前身(徳)
・元侍たちをどうやって食わせて行くかが大変大きな社会問題だった(大)
・農業をきちんとするのが国の力を増すポイントだというビジョンがあった(大)
・農業の研究を開始。新宿内藤町に農業試験場設立⇒明治10年駒場農学校に移転⇒昭和10年東京高等農学校に⇒戦後に農工大に(殖産興業の熱意の表れ)(大)
・武揚はロシア公使時代に様々な植物の種を東京のスタッフに送っていた
・寒冷地で育つ麻の種も送った(北海道でも農業をという願いがあった)(榎)
・祖母は島津家、母方祖母は鍋島家。今見てみると、明治政府の宮内庁はうまい具合に姫を配置した。敵対関係の解消。姫が入ると家来も入ってくる。嫁ぎ先で長男が出来ると嫁側にとっては嫁ぎ先の頂点にわが主君の血が入る事になる。(大)
・官軍賤軍というが明治四年には上(藩主)の方は和気あいあいだった。目的は同じ(国を栄えさせたい)だから(不明)
・大久保家は子供に自分の進路を考えさせ、親が納得するまで考えさせた。実務教育。親が責任を取った。(大)
・榎本がロシアで交渉にあたっていた時、アレクサンドル二世に非常に気に入られた。ロシアの高官ともすぐ打ち解けて仲良くなった。相手に信頼感を抱かせる天才⇒それが榎本の統率力になっていたのでは(榎)
・幕臣八万騎の事が常に頭にあったのはこの時代皆同じと思う(榎)
・徳川の世が長く続いたのは決して徳川の統率力のせいではない。なぜなら3代くらいまでならまだしも、もっと後では政治の決定権は将軍に殆ど無かったから。全部老中などが合議で取り決めていたのを決済しただけ。(徳)
・そもそも将軍は毎日見つめられ続けてレポートされていたので隠し事や悪だくみも出来なかった(徳)
・江戸が長続きした理由は情報をたくさん集めたからと思っている。隠密含め。それと大臣が優れていたから(徳)
・江戸の情報収集能力を持ってしてもダメだった藩⇒薩摩。言語理解不能(徳)
・国を治めるという目的が今の時代よりもずっとクリアで単純だった。(たぶん高)
・農業と教育の重要性をみな認識していた、人を育てる事の大切さ(不)



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