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響由布子
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女性
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ペットと遊ぶ
自己紹介:
日記は数ヶ月ごとに整理しています。
適当に削除していますので検索でたどり着いても該当の日記が無い場合があります。
※連絡先はhibikiyuko〒gmail.com(〒を@に直してください)
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男と女のロジックの違いについては悩むことがあります。
それに、その言葉があらわす対象も違う。
例えば男が考える清純と、女が考える清純にはギャップがあると思う。
(男が考える「女の本音」と女が考える「女の本音」が違うようにd(^_^;)ネ)

処女でウブでも男をゲットするために画策しちゃうような、計算高い、普通の感性の女にとっては不潔極まりない女もいるし、ヤリマンでも画策が出来ない、画策という考えが汚らわしくて大嫌いな女もいるし。太宰治の「カチカチ山」の兎みたいな邪悪で計算高い処女と、遠藤周作の「女の一生」のあの売春しちゃう女の子。どっちがより清純なのかは女の私には明白だと思うんだけど……。
そもそも自分の利益のために画策をして実行しちゃう女って、実は少ないと思うけど……。女子高出身だった私はそう思ってる。それが私の「作者の目線」だと思ってる。

官能小説の中では男のロジックが最優先だということはわかるけど、読者もそれを求めているということもわかるけど……重々承知の介だけど……だからこそ折れてるんだけど……内心では納得がいかない。
富島健夫はその辺の解釈の落としどころが、ギリギリ女が許容できる範囲で絶妙だと思う。

あみんの「待つわ」なんて、「自称清純派」の、他者からの評価と自分の評価のギャップをよく表現してるなと思う。

「♪可愛いふりしてあの子~~~~生きるのがつらかった」

自分では「違うわ私は純情なのよ!」と思ってても、エゴ丸出しでキモいだけじゃん。あの彼とその時点で付き合ってる彼女からしてみたら、単なるストーカーだし。じっと待つのも心の底に「あの女より自分のほうが上」という計算があるからでしょ。本当に好きな相手なら、心の中に永遠にしまって、遠くから彼に操を立てるという選択肢だって当然ある。実際そういう風に諦めて身を引きつつ、自分のものでもない男に操を立てて満足する女はたくさん居る。
なのに、「待つわ」の女は現実の彼(肉体を伴う彼)を手に入れたいだなんて、不純で不潔でむっつりスケベだよね……って私は思う。

長編デビュー作の「ゆうわく生活」、主人公は鶴留(つるどめ)君て言うんだけど、本を読んだ女の知人から「私、鶴留君に添い遂げたい。こんな男がいたら、報われなくてもいいから身も心も捧げたい」ってレスポンスが来て、とても嬉しかった。鶴留君は私にとっての理想の男なんですよ。だからこそ、その言葉がすごく嬉しかった。

鶴留君が最後に自分が関係した女たちの前で土下座して、許しと協力を乞うんだけど、これは踏みにじられる側の女にとってはどうしても必要な儀式なんです。鶴留君の誠実さを愛した女たちが、鶴留君の誠実に踏みにじられようとしている。彼は自分が関係した女たちを捨てる(無かったことにする)罪で、一度思い切って死ななければならないんです。この物語の場合はもちろん精神的な死、ですけど。宗教儀式みたいなもんです。嫉妬に狂った女たちのための魂の浄化とでも言いましょうか。さもなくばイニシエーション。

鶴留君みたいな人にとって、土下座は相当勇気がいることだし、相当追い詰められないと出来ないし、女たちのことについて本気で負い目に思わないと心からの土下座は出来ないし、恋人を本当に愛してなければほかの女とも「なぁなぁ」で済ませてしまうだろうし……あれしか道はない、みたいに私は思ってます。(その理屈がわかる女性からは好評を得ている、ということじゃないかと思います)

かつてイエス・キリストが(長くなるので以下略

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