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響由布子
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女性
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ペットと遊ぶ
自己紹介:
日記は数ヶ月ごとに整理しています。
適当に削除していますので検索でたどり着いても該当の日記が無い場合があります。
※連絡先はhibikiyuko〒gmail.com(〒を@に直してください)
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鈴木貫太郎記念館

■昨日は史跡探訪の会のイベントでマイクロバスに乗り、戸定邸、鈴木貫太郎記念館、関宿城博物館に行きました。
■もっとちゃんとまとめたいのですが、思う所がたくさんありすぎて何が何やら。聞いた話のメモを書き起こすだけにしておきます。聞いた話をメモっただけなので正確ではないかもしれません。その点ご了承ください。
■鈴木貫太郎と昭和天皇と足立タカについてもっと深く知ってみたいなと思ったことだった。
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■昭和の歴史を知るには彼と奥さん足立タカと昭和天皇の関係は外せないと思うのでもうちょっと勉強しておきたい。(私の感想)
■足立タカは札幌農学校勤務の父親足立元太郎(新渡戸稲造と同期)の影響を受け、動植物に対する造詣が深かった。(どこかでそう読んだ)
■皇太子裕仁の養育係として勤務し、裕仁に多大なる影響を与えた。
■裕仁はタカを母とも慕い、貫太郎を父のように思っていた。
■226事件の時は「たまたま」がいくつも重なった。兵たちが乱入してきたとき、鈴木貫太郎は蔵に飛び込み、いつも窓際に置いてあった刀を掴もうとした。だがその刀はたまたま妻タカが「こんな所に無造作に置いて危ないわ」と片付けてしまっていた。貫太郎は丸腰で彼らを迎える事になったが、それが故いきなり殺害されないですんだ(らしい)。
■たまたま(ではないという説ももちろんある)鈴木を殺害しに来た将校たちの親玉が、鈴木を尊敬していた安藤大尉だった。タカが「とどめをさすな」と言った事で安藤大尉が命令し、彼らは引き下がった。
■鈴木は4発ほど弾を撃ち込まれて瀕死の状態になったが、兵隊のたまは鉛で柔らかく、それが命を助けた。大尉クラスの銃撃だったら弾はステンレス製なので助からなかっただろうということだった。
■本当に瀕死の状態だった。
■タカが天皇側に即電話して撃たれた事を伝えた⇒軍が根回し隠ぺいする暇も無かった
■安藤大尉は事件のあと、自分を責めて2度ほど自殺未遂をした。
■安藤大尉の遺品が野田市に寄贈されたが反対運動があった。その時鈴木氏の子孫がOKを出して野田市もそれを受け入れる事になった。再来年の2月、226事件の85周年を記念して、安藤大尉の遺品が展示される。
■226事件にかかわった者は全員銃殺。これは裕仁の激怒によるもの。
■九死に一生を得た鈴木貫太郎は、昭和天皇に引導を渡すという非常に重要な役割をする。敗戦準備、ポツダム宣言受諾である。
■もうこりごりという事で終戦後に関宿に隠居した鈴木夫婦だったが。昭和天皇のたっての願いでまたもや難しい役を押し付けられる。それが大日本帝国憲法を取り下げ、新平和憲法を制定させるという仕事だった。
■新しい憲法を通すには枢密院の議決が必要で、そのために鈴木が枢密院の議長になった。
■関宿では酪農業を振興させようと頑張っていた。これはタカの父が札幌農学校出身であることが関係している(のだろう)。
■画像は記念館で買った冊子400円也。


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