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響由布子
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日本における定時法と不定時法

※昨日「操觚の会」の勉強会で教えていただいた事を元に少し足しました。目からウロコな話がとても多く、一つ一つの間違い指摘がとても勉強になりました。ありがとうございました。
個人的に一番「知って嬉しかった」「長年の疑問がとけた」話題について、帰宅後調べた事などを付け足してここに書いておきます。(ほかにも色々あったんですがまずはこれ)

【不定時法と定時法】

■不定時法は季節によって時間の区切りの長さが変わるもので、江戸時代の日本の時刻は不定時法なのはみな様ご存知の通りです。
■しかし、江戸時代の不定時法のインパクトが強すぎて、他の時代で連綿と続いていた時刻の計り方が吹っ飛んでしまっていました。
■江戸時代では江戸期から始まった不定時法と同時に、それ以前から続いていた定時法も採用されていた事は意外に知られておりません。(私は知らなかった)
■しかしよく考えてみれば木簡(公文書)に出てくる「申の刻」「子の刻」がいつなのかとか、「丑三つ時」の「丑」「三つ」って何だろうとか、小さな疑問はその都度皆さんも感じているわけで、つまり色々な小さい事が「頭の中で繋がってなかった」状態なのではないかと。
■不定時法では日の出と日の入りを起点にしてその間の日中と夜間を六つに区切ります。なので夏は日中が長くなり時間の区切りも長くなります。冬はその逆です。
■ちなみに明六つとは太陽が水平線から顔を出した時ではなく「薄明」、空が白んできた時刻を指します。暮六つとは太陽が完全に沈んだ時ではなく、相手の顔を見て「誰が彼(たれそかれ)」か分からなくなった時点を指すそうです。たそがれです。
■ここは私の推測ですが、公文書は定時法を採用し、庶民生活は不定時法を採用していた、つまり江戸の武士は、庶民と接点がある人は二つの時法を使いこなし、庶民との接点のない公家などは定時法だったのではないかなと……(個人の推察です)

 

【その前に定時法の歴史】

■時刻をはかり始めたのは発掘結果などによれば紀元前4000年頃のエジプトで日時計でした。
■紀元前1400年頃にエジプトで水時計(水をぽたぽた滴らせて計る)が始まります。
■古代中国、前漢時代に『漏刻(ろうこく)』という水時計があった事がわかっていて、日本にもその技術が渡来しました。日本で漏刻をはじめて採用したのは中大兄皇子と言われています。「斉明天皇6年(660年)に漏刻を採用した」という記述があるそうです。
■大化の改新(律令制開始)の一環としての定時法採用と思って良いのかなと(⇐個人の感想です)。
■近江神宮サイトより転載開始:この時の漏刻がどのようなものであったのか、文献には全く記載がなく、不明というしかありません。飛鳥の水落遺跡は斉明朝の漏刻の跡ではないかとされていますが、漏刻そのものが出土しているわけではありません。(転載終わり)
■暦(時間の決まり)を決めるのは天子の権利、という事で改新したのではないかと。
■6世紀頃には燃焼時計(長いお香やろうそくを燃やして時刻を計る)も始まる。こちらは漏刻と違って持ち歩きが出来るので、漏刻の時間を遠くに広めるためにもつかわれたのではないかと思います(個人の推察です)。
■機械式の時計が入ってくるのは戦国時代、外国人宣教師の渡来によってもたらされた。日本の職人はその仕組みを教えてもらって独自に時計を作り始める。
■セイコーミュージアムより転載開始:キリスト教の伝導が進むにつれて、宣教師達は九州や京都に教会付属の職業学校を設け、印刷技術やオルガン、天文機器などとともに時計の製作技術を教えました。そこで、日本の鍛冶たちが指導を受けながら時計を製作したのが、日本の機械時計製作のはじまりです。(転載終わり)
https://museum.seiko.co.jp/knowledge/wadokei/index.html
 

【日本における定時法】

■古代中国からもたらされた「漏刻」は巨大な仕掛けが必要で、流れ出る水を常に管理する人も必要でした。律令制開始の時に出来た『陰陽寮』には、暦博士、天文博士、陰陽博士のほかに漏刻博士というのがいて、「漏刻」の管理などを学んでいました。
■『陰陽寮』とは、官僚養成所みたいなものでは(個人の解釈です)
■『漏刻』の時間のはかり方ですが、一日を100に分割します。24時間を百分割なので「漏刻」での時刻の一単位は24×60÷100=14.4分です。
■近江神宮サイトより転載開始:
 その後奈良時代に入って太宰府や多賀城、各国府などにも漏刻が置かれていったことが文献に見え、平安時代の末までは使用されていたのですが、その後律令体制の崩壊とともに徐々に廃絶していったようです。また、近江神宮の漏刻は大きな石造物であるわけですが、持ち運びのできるものもあったようで、天皇の行幸の際には必ず漏刻を携行し、漏刻博士や守辰丁(管理係)も同行したとのことです。
 なお、平安時代の文献によれば1日100刻制も行われていたようです。(転載終わり)
■近江神宮サイトより転載開始:漏刻そのものは中国の技術の導入であったわけですが、中国の100刻制に対して日本では独自の48刻制を採用したということです。そして現在の時法でいえば3分刻みの精密さで時刻を測り、律令体制の確率に資していったのです。日月食の時刻の計算なども(しかも日本では見えない日食の予想時刻の計算までも)その時刻制度によって行われていたことが平安時代の文献に見えます。(転載終わり)
■「漏刻」と同時に一日を12に分割する方法がありました。12分割の場合は十二支を時刻にあてはめます。木簡に書かれている「申の刻」「子の刻」などの事です……よね。
■つまり平安時代においても、江戸時代のように2つの時刻の計り方(「漏刻」と「日本独自の十二辰刻」と)が採用されていたわけですね。
■なぜわざわざ独自の方法を編み出したのか、そこについてはこれから調べて行きたいと思います。
■近江神宮サイトより転載開始:日本では、1昼夜を12に分けて(12辰刻)十二支の名称で呼び、1辰刻を4つの刻(4刻 または4点)に分け、さらにその1刻を10に分けていた(10分)ことが『延喜式』などの文献から知られます。1辰刻は現在の2時間、1刻は現在の30分、1分(ぶ)は現在の3分に相当します。時計を持たない一般庶民は太陽の動きと明るさによって生活するしかなかったでしょうが、少なくとも平安時代の宮廷の正式な時刻制度としては、季節によって時刻が変らない、定時法が行われていたとされています。
 『延喜式』にはこの時刻制度によって季節ごとの日の出日の入り時刻、宮廷の諸門の開閉時刻、役人の出退勤時刻などが書かれており、その基準は漏刻によって知られる時刻ですから、漏刻の目盛もおそらく定時法で、1本に48の目盛を目盛って用いていたのではないかと考えられます。(100の目盛であったとか不定時法であったとかの説もあります)そして門の開閉時刻や1辰刻ごと、1刻ごとに太鼓または鐘を鳴らして時報を行ったわけです。
http://oumijingu.org/publics/index/167/
■ここまでくると「丑三つ時」が理解できます。定時法の丑の刻(一刻は四分割される)の三つ目、という意味ではないかと。
■つまり「丑三つ時」は不定時法じゃなくて定時法の時刻だったと、いう事ですね。すっきりしました!!!

 
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