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小田原と外郎家

【小田原と外郎(ういろう)家】


(パンフレット転載、読みやすいようにテニヲハ等直しています)


1495年に小田原を平定した北條早雲は、京都の朝廷に仕えていた外郎家五代目・外郎宇野藤右衛門定治を招き、朝廷との外交役としました。


■外郎家は中国で約一千年、日本で六百数十年続いている家で、初代陳延祐(ちんえんゆう)は元に仕えていましたが、元の滅亡と共に日本に帰化し、中国での役職名・礼部員外郎(れいぶいんがいろう)の外郎をとって、役職名と区別するため「外」を「うい」と読ませて「外郎」と名乗りました。医術と占いに優れていたので、将軍・足利義満から京都の招かれましたが、最後まで行かず、博多で生涯を閉じました。


■かわりに二代目・宗奇(そうき)が朝廷に仕えました。延祐の持参した家伝の薬「霊宝丹(れっぽうたん)」は朝廷に珍重され、宗奇は朝廷の命をうけて明にわたり、実家から薬の処方を持ち帰りました。これが薬の「ういろう」です。


■また、宗奇は朝廷で外国使節の接待に供するための菓子を自ら考案しました。これが菓子の「ういろう」です。どちらも外郎家のものであることから「ういろう」と呼ばれました。なお、薬のういろうはのちに天皇から「※透頂香(とうちんこう)」の名をいただきました。


※大切に扱い、丸薬を呑むときは冠の隙間から取り出していただく……この様子を天皇は透頂香と詠んだのでした


■五代目定治は小田原へ来住する際、菓子の製法を弟に残してきましたが、京の外郎家はその後、室町幕府とともに兵火にかかり、世継ぎも無く絶家し、その時仕えていた職人等によって菓子の製法は全国に広まりました。一方、薬の製法は小田原の外郎家が一子相伝で現在も伝えています。


■豊臣秀吉が北条家を滅ぼした時、北条一族家臣は城下に残さない方針でしたが、外郎家だけは特別で残され、以後外郎家は薬を一般に売り出し、医薬の方に専心する事になりました。そして江戸時代には宿老(しゅくろう)として、小田原のために尽くしました。


■享保年間、歌舞伎役者・二代目市川団十郎は持病の咳と痰のため台詞が言えず、舞台に立てずに困っていました。その時、薬のういろうのことを知り、この薬によって全快しました。お礼の気持ちで「こういう薬もある事を知らせたいから」と舞台で上演することを申し出ました。外郎家は宣伝になることを恐れて固辞しましたが、再三の申し出に上演を承知し、こうして市川団十郎の創作による歌舞伎十八番「外郎売(ういろううり)」の台詞が誕生しました。


■明治に入ると、室町時代から貴紳の接待の為に作っていた「菓子のういろう」も市販するようになりました。


■外郎家は朝廷から十六の菊の紋と、五七の桐の紋を与えられていましたので、五代目定治が小田原に八ツ棟造りの建物を建てた時、天皇より祝いの言葉を賜りました。このため八ツ棟は壊れると建て直すのが代々の遺言となり、その回数から小田原地震の回数が察せられます。


 ■こうして北条早雲の時代から五百年、外郎家は今も小田原でその伝統を守り続けています。明治十八年築の蔵を利用した博物館にて、外郎家にまつわる品々を展示しております。


※転載終わり。他人と一緒の行動だったので博物館は見学できなかった。残念!


 追記:初代外郎さんは現在でいうところの浙江省出身で元の順宗皇帝に仕えていたそうです。


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