【氷川神社の真実展まとめ2】
開催中の「氷川神社の真実」展と、さいたま市立博物館で開催されている「氷川神社」展のざっくりまとめです。
・氷川神社の神職組織は時代によって変化しているが、近世末期からは複数の神主家と複数の社人家、その下の下社人家というピラミッド構造になっている。
・神主は角井家(西角井)、角井家(東角井)、岩井家の3家である。東と西というのは参道を挟んで東と西に住居が分かれていたから。
・社人家は加藤・井上・磯部家(←社務を担当)と、杉山善三郎・堀江家(←巫女と神楽担当)。
・下社人家は潮田・高橋・杉山勘五郎家(←下社人家は清掃などを担当)
・江戸時代の氷川神社は神仏習合で社僧もいた(その話はたぶん別に書きます)
・そもそもなぜ神主が3家(江戸初期までは4家)いたかというと、本殿の中が仕切られていて神が複数存在するから(これが氷川神社の大きな特徴と教わった気がします←私)
・図の説明。江戸初期には神主は4家だった。金杉家(のちの氷川家)は門客人社(アラハバキ神と言われている←注:私)、内倉家(のちの西角井家)はカグツチ神(簸王子宮)、岩井家は男体宮、角井家(のちの東角井家)は女体宮の祭祀を担当していた。
・余談だがカグツチ神が正式に祀られるようになったのは、修験道の影響という説がある。氷川神社はその当時、修験道の霊場としても結構有名だったらしい。(火渡りの神事などがかつてあった)
・延宝七年、神主の一人である氷川家の当主氷川内記が改易になり、氷川神社は3家が年番で神主を務める事になったが、明治になるまで度々「三家は平等である」という御触書が出された。つまりこの三家でなにがしかの勢力争いがあった……かもしれない。
・三神主年番体制が終わるのは明治元年。明治天皇行幸を機に本殿を整理した。男体宮を中心に据え、女体宮と簸王子宮は摂社に変更させた。
・岩井家が神主となり、内倉家と角井家(のちの東西角井家)は禰宜となった。
・手書きの家系図の方の武蔵武芝の娘二人のうちの一人が家を継いだが、注目すべきは結婚相手で菅原道真の子孫である正好と結婚、氷川神社の祭祀権が一時菅原家に移った(という事になる)。しかしこの話は西角井家文書の家系図しか論拠が無く、信憑性は分からないという人もいる。
※よく話に出る氷川神社・中山神社・氷川女体神社の3つが一直線上に並び……という話は昭和30年頃出現した作り話だそうです。一直線に並ぶのは氷川神社・中氷川神社・奥氷川神社の方との事。