【氷川神社の真実展】その1
さいたま新都心・コクーン2ホールで開催されている「氷川神社の真実」展とさいたま市立博物館で開催中の「氷川神社」展のざっくりまとめその1です。
-----
・氷川神社のある場所には馬蹄形をした縄文後期~平安時代にかけての住居跡があり、馬蹄形の中心には祭祀の跡がある
・今でも境内の砂利をよく探すと縄文土器の欠片を見つける事が出来る(野球場などを作った時に掘って大量に出た砂利がそのまま敷き詰められているため)
・東日本総鎮守の役割を課せられたのは明治維新時で、それ以前の氷川は今と同じではない。
・氷川神社には今でも綺麗な水が湧き出している場所があり、縄文時代に住居跡があった事から推測するにその時代から水が湧き出していたのではないか(依り代の可能性?)
・氷川神社が文献に初めて現れたのは『新抄格勅符抄』
「氷川神 三戸 武蔵国 神護二年七月廿四日符」
・これは奈良時代中期の神護二年(766年)に朝廷から封戸三戸が与えられたという記録。
・当時、武蔵国の神社で封戸三戸は破格の扱いであった(ほかにない)
・これは当時、氷川神社を奉齋していた「丈部直不破麻呂(はせつかべのあたいふわまろ)」の功績によるものであったと考えられている
・不破麻呂は神護景雲元年(767)に武蔵宿禰(すくね)の氏姓を授かり、武蔵国内の神祇祭祀統括する武蔵国造に任命された
・不破麻呂の娘家刀自は采女として朝廷に仕えたが地方出身女官としては破格の扱い(采女なのに従四位下)
・東西角井家は武蔵不破麻呂の家系であり物部忠正家系でもある(西角井文書家系図より)←※ただし家系図の内容の信憑性についてはちょっと分からない。
・物部=出雲系、氷川の名前の由来は緋川(出雲にあった川の名前)という説もあった
PR